研究室の歴史
中井 教授、山本 教授、武藤 教授の紹介ならびに駿河台時代、その後生田校舎にて現在まで
駿河台時代の前半(昭和19~29年)は、戦争末期から戦後の混乱期にかけて工学部が学部のかたちを作りあげる期間であった。
工学部は、昭和24年に新制明治大学の一学部としてスタートをきるのであるが、その母体であった東京明治工業専門学校の学生募集はその前年に打ち切り、かわりに在学生の多くを学部生として編入することで、1,2,3年生を同時に発足させるという、いま思うとかなり強引な出発であったと記憶している。さらに加えて、翌25年には第二工学部(夜間部)が設置されたのであるから、授業は昼夜にわたり、私の持時間は前後期それぞれ25時間くらいあったように思う。
開設当初の電気工学科の陣容は、まず第一講座 神保成吉教授、第二講座 楠瀬康雄教授、第三講座 中井将一教授、第四講座 川口寅之輔教授がおられ、講座分担と電気実験担当として田中庄蔵、高木亀ー、永倉充の各助教授、仁平幸治、武藤文昭の各専任講師、および小川康男、大石泰之、高橋実、山口哲郎の各助手の併せて13名の専任教員であった。このうち、神保先生と田中先生のお二人だけが工専時代から教えておられた先生である。(中略)
いま、当時を回想して本館(駿河台校舎)ですごした4年間に格別の想いが残る。昭和23年、「明治大学にある工専が来年昇格して工学部になる」と尾本先生に聞かされ、喜び勇んでやってきた。神保先生から「君は弱電の方を勉強したようだから、近く見えられる中井教授につくように」と指示され、木製の古い机と椅子のあるガランとした部屋に案内された。一月くらいたってから中井先生が着任された。先生は元気撥剌とした学究肌の方で、早速研究を始めようということになった。一つはダイナトロン発振器という真空管による負性抵抗発振器の実験研究であり、もう一つは硫化銀の抵抗の負の温度係数の測定であった。先生はこの頃、「変化抵抗を有する回路に就いて」という学位論文をお書きになるところで、とくに負性抵抗回路に興味を持たれていた。前者の実験はオシロスコープの波形を写真にとる仕事で同期の取れない測定器に苦労した。後者は測定上接触抵抗の低いことが重要なので端子を真空蒸着で作ろうということになり、もらってきた中古の真空ポンプを騙しながら運転したのが懐かしい。昭和23年には小川康男氏も同室しており、協力してこれらの研究は行われた。小川氏は神保先生が将来を嘱望されて採用された卒業生であったが、神保先生は多忙で充分な指導ができないことを理由に中井先生に一時あづけられたように思う。それはともかくとして、昭和24年春には学会で発表して来いと云われ、度胸のない私はたいへん緊張して喋ったことを昨日のことのように思い出す。
昭和23年(1948年)はまたトランジスタ発明の年でもあった。ある日、外出から戻られた中井先生は開口一番、「武藤君、アメリカでとんでもない発明があったようだ。なんでも結晶上に2本針を立てると増幅器になるそうだ」と云われた。一ヶ月たって新聞やラジオでも報道され、話題は日々拡がったが、その内容は漠然として核心にふれる記事はなかなか出てこない。半導体の知識のない時代だったからいかにも簡単にできそうに思ったが、やがて単結晶を作ることから始めなければならないことがわかってきて、物理屋には歯が立たないテーマと実感した。それでもトランジスタの情報を得るには日比谷にあったGHQのライブラリに行って雑誌( Physical Review, Electronics など)を見るしか方法がなく、ノートにすべて書き写して読んだりした。これらの雑誌は朝一番に行かないと誰かに借り出されていた。論文の中に点接触形トランジスタは負性抵抗を示すと書いてあり、早く手に入れて実験できたらと思いながら歳月が過ぎていった。
中井先生はほどなく病魔におかされ、昭和27年にこの世を去られた。働き盛りであられ研究教育に人一倍熱意をお持ちの先生にご指導いただいたことは一生の財産であったが、その期間があまりにも短かったことはいまも無念である。亡くなられたあと誕生した長男に、一字違うが読み方は同じ名前をつけた。
昭和29年には東工大を定年退職された山本勇教授と大槻喬教授のお二人をお迎えした。すでに設置されていた大学院の教員スタッフの強化と聞かされており、山本先生は中井先生亡きあと空席であった第三講座に、大槻先生は第五講座として電力関係の講座をおこされ、田中先生はそちらに移られた。当時ははっきりとした講座制で、こうして5講座10名の教員が揃った。また助手も増加され、石崎弘、堀内雅文、松森徳衛、渡辺雅夫の諸氏が新たに各講座に配属された。
山本先生は着任早々に科長となり4年間その職を続け、同じ講座にいた私はその間教室幹事をやらされた。さらに教務委員や就職委員の仕事もやっていたいたように思う。教授の方々だけは新築された大学院棟に個室があり、教室会議は科長の部屋で開かれていた。なお、駿河台時代は制度的に教室会議に助手が参加することはなかったから、助手の方々は疎外感を持っていたと思う。当時の2部(夜間部)の授業は若手の教員が多く担当させられていたので、夜遅くまでともかく多忙であった。写真は昭和31年熱海寮での会合のとき写されたもので、全員揃っていないが年令的に中間層の薄い教員構成であったことが推測されよう。(中略)

左から尾本、武藤、山本、永倉、高木、田中、神保各先生方(熱海寮にて)
昭和36年10月に工学部は「工学部拡充計画について(願い)」という文書を理事会に提出した。これが生田移転計画の始動であった。この計画案では電子工学科と第2機械工学科を増設し、学内入学定員を700名から1000名に増加するとした。結果は学科増設が見送られ、定員増のみが実行された。校舎が生田に決まるまで紆余曲折があったが、電気の教室には賛成者が多かった。1年を経て昭和37年10月に「拡充計画実行委員会」が設置され、カリキュラム・人事・施設の全実行計画の作成にあたった。教室では高木先生と私が委員に選ばれ、急ピッチに作業が進められた。カリキュラムは電気・電子の2コースを骨子にして作成した。昭和38年には生田校舎の建設が始まり、そのための「生田校舎建設委員会」にも仁平先生と私は委員をやらされた。仁平先生は理事会の委嘱により三十年代に相継ぐ新校舎建設の電気設備設計のすべてに参画され責任者としてその重責を果された。つけ加えれば、これらの仕事は無報酬であった由で、当時の大学の財政の厳しさが偲ばれる。
生田校舎建設には多額な建設費が必要であり、主として聖橋校舎の売却がこれに当てられた。聖橋校舎は中央大学の正門前にあったが市価より高く買ったのは電機大であった。その理由は、電機大の隣地を中央大が所有しており、これと交換することが目的であったようである。実際にあとで聖橋校舎を使用したのは中央大学であった。
昭和39年には、1号館ができて1年生の授業が行われ、翌年工学部すべての移転が完了し、駿河台時代は幕を閉じる。教育研究環境は生田で一新され、夜間の授業から開放されその感動は昨日のことのように思い出される。駿河台時代を回想すれば、それは生田工学部への長く苦しい道筋であったが、将来への希望を持ちつづけた楽しい時代であった。とりわけ当時の学生諸君は活々として明るく個性的で、明治大学に奉職して本当によかったと思ったことである。さらに電気工学科にとっては三十年後半に学部学生であった俊才たちが現在学部学科の中核になって活躍されており、その意味で駿河台後半は活気に満ちた時代であったように思う。
終わりに、当時の先輩諸先生のご活躍を活写できていないことをお詫びし、御寛容をお願いしたい。
”明治大学理工学部50年史”回想「駿河台時代の電気工学科 武藤文昭」より
中井 将一 教授
東大卒、日本電気を経て昭和23年~昭和27年在職 音響工学
山本 勇 教授
東北大卒、東工大教授を経て昭和29年~昭和34年在職後、電気通信大学学長に就任 高周波工学
武藤 文昭 教授
東工大卒、昭和23年~平成7年在職、後平成10年まで兼任講師 電子回路 趣味:絵画(油絵)
その後、平成7(1995)年まで武藤先生のもとに培われてきた”通信工学研究室”を継承し、”情報伝送研究室”と研究室名を改名した川口ゼミナールが誕生した。
現在までの卒業生約1,000人以上の会員数を有するOB会組織となった。
川口 順也 教授
明大卒、平成7年~平成22年在職 電波工学

